上から下に水が落ちる「滝」。全国各地に滝は存在し、その滝に打たれるのを滝行と言ったりもする。ただ滝に打たれるのが本当に修行なのだろうか、と思う。「滝のような雨」という表現があるように、滝も雨と変わらないという考え方もできるのだ。そこで滝に雨具で挑んでみたいと思う。滝とて所詮は雨なのだ、という説だ。
滝は激しい雨くらい説
華厳の滝や養老の滝など日本のあちこちに滝が存在する。観光として、わざわざ滝を見に行ったりする人もいる。山梨県にある小菅村は多摩川の源流にあたる村なのだけれど、そこでは源流体験として滝に打たれるというプログラムもある。
我々は滝をすごいものと思いすぎているのではないだろうか。わざわざ滝を見に行ったり、わざわざ滝に打たれたり。先述のように「滝のような雨」という表現があるくらいだ。上から下に水が落ちる、という点では雨も滝も変わらない。滝も所詮は雨なのだ。
ということで、滝と雨は一緒だというのを調べるために傘をさして滝に向かいたいと思う。滝も雨降りの日と変わらないと分かれば、滝行だって雨の日にできるし、滝に打たれるプログラムも雨の日にできてしまうのだ。いま革命が起きようとしている。
滝で傘
4月の終わりでもこの辺りにはまだ雪が残っている。またこの「雄滝」のしぶきを浴びると男性は「精力増進」するのだそうだ。濡れることで精力が増す滝。実に神秘的な滝だ。しかし、そんな滝とて雨と変わらないのだ、きっと。
コンビニで買った傘を持って滝壺へと向かう。静かな山に滝の轟音が響く。しかし私は傘を持っている。いつだって傘は我々を雨から守ってくれた。滝だって全然大丈夫なのだ。滝と雨は変わらないのだ。ちょっと激しい雨の日なのだ。
コピー用紙をグシャグシャにするかのように、簡単に傘は壊れた。水圧がすごくて傘は全然傘の役目を果たさない。滝のような雨は全然滝のような雨ではない。本当の滝は傘が壊れるのだ。雨では壊れない。
カッパだ!
傘はだめだった。でもまだ雨具はある。カッパだ。考えてみると傘はよく服を濡らした。さし方が下手なのかな、と思っていたが違うのだ。傘がダメなのだ。カッパこそが我々を雨から守ってくれるのだ。
カッパは最初すごかった。全く濡れないのだ。足下は濡れているけれど、頭はもう全然濡れない。これはすごい、滝もカッパの前では無力だ、と感動を覚え、天を少し仰いだ瞬間にフードが水圧で後ろにずれ、直で頭に滝がやって来た。痛い。凄まじい水圧だ。
水圧で風船は割れるのか?
傘を壊し、フードを取り、と滝の水圧は横綱級だった。もはや滝と雨が違うのは明白だ。滝に打たれるのが修行となるのも理解できたし、滝に打たれるプログラムが魅力的なのも分かった。雨では体験できない体験ができる。滝の前では、滝のような雨は赤子だ。
滝のすごさを調べることにした。風船は滝で割れるのだろうか。雨では風船は割れないだろう。しかし、滝ならば割れるのではないだろうか。雨と滝は違うのだ。皆さんは知っていただろうか。あとこの滝のしぶきは精力増進になるらしいが、寒過ぎて縮み上がっている。
水圧で風船が割れた。いや、私の手が寒過ぎて力が入ってかもしれない。しかし割れたのだ。寒過ぎて体の感覚がなくて、風船を持っているか否かすら分からない。気がついたら風船がなかった。あんなにふっくらした風船の面影は滝の前ではないのだ。
最後はカルピスを!
ここまで寒い中がんばったので、自分のご褒美として最後はカルピスを飲むことにした。多摩川の源流にあたる村の水。公式ではそのまま飲むことはダメなのかもしれないが、個人の責任では問題ないだろう。澄んでいてとても綺麗だ。
濃いカルピスを飲むべく、コップに半分以上のカルピスの原液を入れた。私は濃いカルピスが好きなのだ。これを多摩川の源流の水で割る。さぞ美味しいカルピスになるだろう。寒さも甘さで吹っ飛ぶはずだ。
あんなに白かったコップの中が透明な液体になった。これを一般に「水」と言う。滝の水圧がすご過ぎて、原液が出てしまい水になったのだ。滝はすごい、という結論である。雨とは違うのだ。滝には、わざわざ見に行く、わざわざ打たれに行く、という価値があるのだ。ただし暖かい時期に。この時期はまだ寒過ぎて震えが止まらない。